濫觴・一樹
徒然なるままに…
濫觴通信
2003年4月
42号
発行:市橋一樹
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【濫觴通信2003年4月42号】

「セレンディピティ」

「ない」
「無い」
 確か、エッセイ集にあったはず。
「この本でもない」
 なにを探しているのかというと、探しものをしているとき、それではない思いもかけないものを見つけることをなんと言ったのか、その事を書いた本を探している。
 読んだ本がどこかにあるはずだ。

 陰生著「一月一話」を開けて丹念に見てみる。
 16頁に「戦争絶滅受合法案」の表題で、著者がユーモリスト如是閑の戯文ではないかといって紹介している文があった。
 ----------戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。則ち以下の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従わしむべし。
 一、国家の元首。但し君主たると大統領たるとを問わず。尤も男子たること。    
 二、国家の元首の男性の親族にして十六歳に達せる者。
 三、総理大臣、及び各国国務大臣並びに次官。
 四、国民によって選出されたる立法部の男子の代議士。但し戦争に反対の投票をしたる者は之を除く。
 五、キリスト教又は他の寺院の僧侶、管長、その他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。
 上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集されるべきものにして、本人の年齢、健康状態を斟酌すべからず。--------云々。

 これはイラクを攻撃しようとしているアメリカのブッシュ大統領、日本の総理大臣に読んでもらいたい。
 これを国連に提案してもよいのであるが、間違いなく否決されるに決まっている。
 他に「小股の切れ上がった女」の小股の切れ上がったとは何かという文などもあった。
 いろいろ読んでいると、探すという作業は進まない。
 
 これかなと思って、陳瞬臣著「走れ蝸牛」を開けてみる。
 忠臣蔵の映画で江戸表の変を、赤穂に知らせる使者が早駕籠で赤穂城に半死半生で到着した。------なぜ馬に乗らなかったのか?-------で始まる「馬と日本人」がある。
 平安時代の絵巻物には、牛車が登場するのに、馬車の姿は見かけない。
 江戸時代に、人間は駕籠に乗るようになったが、馬は背に荷物を乗せて馬子が鼻歌を歌いながら、鈴をならしてぶらりぶらりと運び、疾走する馬は軍用である。
 車と名のつく快速の乗り物は、馬車が始祖である。その馬車の経験がない日本が世界最大の「乗りもの」生産国となっているのは、不思議といえば不思議である。ゆっくりと動くことを重んじた日本人が、セカセカと動くようになったことのほうが、もっと不思議なことなのかもしれない。
 と、いう文がある。 

 そして、辞典は日本人が使う前提で、意味の解説に偏重していて使い方については不親切なようにおもうと「我慢」という言葉についての文もあった。
 我慢は「苦しさやつらさをじっとこらえること。忍耐」として日常使っているが権威のある大きな辞書には
 @ 自分をたのみたかぶって、他を軽んじること。高慢。
 A 我意を張り他に従わぬこと。剛腹。
 以下BCとある。
 我慢という言葉は、@のように仏教用語からのもので(傲慢とか慢心という用例のように、悪い意味をもっている)間違いではない。が、じっさいに我慢を悪い意味ではなくて、良い意味の「苦しさやつらさをじっとこらえること」として使っているから、外国人に日本語を教えている先生がクレームをつけている。

  という文にも引っかかった。なるほどね!

 あれ? 同じようなことを書いている本があったはずだ。
 辻本浩三著「辞書のウソ」にあった。
 【謳歌】声をそろえてほめたたえること。「青春を----する」(広辞苑第五版)
 【謳歌】多くの人が声をそろえてほめたたえること。喜びなどを言動にはっきり表すこと。「青春を-----する」声をそろえて歌うこと。また、その歌。(中略)うわさすること。また、うわさ。(中略_(大辞林第二版)
 たしかに【声をそろえてほめたたえること】というのが本来に意味かもしれないが、この意味で使われている文章に出会う可能性はあまりないだろう。
「青春を謳歌する」「平和を謳歌する」と評論で使われている時は、「思う存分、遠慮なく楽しんでいる」と考えればよいのである。「幸せや喜びを遠慮なく言動に表す」といった説明を書いてある辞書も多いが、必ずしも「言動に表す」というニュアンスがあるわけではい。

 これは面白い!
 自分も辞書を調べてみよう。
 広辞苑第二版補訂正版を開いた。
 しっぽ【尻尾】@獣類などの尾。A垂れ下がった細い物や長いものの終わりの方。また順位の末の方。
用例として----をだす。----を掴む。----を巻く。
@Aの定義で、この用例を説明できない。小中学生が利用したとき、その用をたすことが出来るであろうか。辞書の責任はいかなるものか?
 「隠し事やごまかしなどが、表面に現れる糸口」の意で「しっぽを出す」「しっぽを掴む」と使われているのであるから、獣類の尾ではおかしなものである。
 しかし、獣の尻尾をつかむと噛みつかれてしまう。また、人の隠し事を見つけて問いただすと、開き直って逆襲してくるから、@の獣類などの尾の定義でも良いのかも知れない。

 となると実用の用をなさない「濫觴悪魔の辞典」があっても良いだろう。
 【アッ】レジの前で財布にお金が入っていないことに気が付いて、出す言葉。
 【快感】膀胱がいっぱいになり、やっと見つけたトイレで放出する感覚。
 【鯉のぼり】見た目はきれいだけれど、中身のない人の別名。また、中身もないのにお高くとまっている人
       のことをもいう。
 【大器晩成】できの悪い子を持つ親に希望を与える言葉。
 【人間】対面して合体することができる動物。(中には、合体して問題を起こす奴もいる)
 【無駄】この人と一緒にならなかったら、別の人生があったと考えること。
 【臍】裸婦を描くとき忘れてしまうと、マヌケな絵になってしまう人間の大切なところ。
 以上、濫觴通信33号・38号に載せていたもの。

 新明解国語辞典(第三版)では
 【恋愛】を、特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという
       気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる。(まれにかな
       えられて歓喜する)状態。と定義している。    
 これは、赤瀬川源平著「新解さんの謎」に教えてもらった。

 中国故事成語辞典では、【濫觴】「濫」は、あふれる。「觴」は、杯。「揚子江のような大河でも、その源は杯にあふれるほどのささやかな水」であるという意。わが国では一般に「杯を浮かべるほど」と訳されているが、誤りである。杯を浮かべるほどなら、ささやかとはいえまい。
 それは太宰春台の誤訳によるもので、「杯からあふれるほどのささやかな水である」が正しいとあったから、手持ちの九冊の辞書を調べたらほとんど「杯を浮かべるほどの水」とあった。その中で一冊は、一説にあふれたほどの水。と補記されていた。新明解国語辞典(第三版)では、「揚子江のような大きな川も、水源を探ると小さな杯を浮かべた時にあふれる程度の湧き水から始まるということから」とあり、辞書をどこまで信頼してよいのかと思った。

 それ以来、お客様から【濫觴】の意味をきかれたとき、太宰春台の誤訳の話をしている。

 いろいろ読んでいたら、最初に何を探していたのか忘れてしまった。

 「あった」 「あった」

 増原良彦著「あべこべ理論」の冒頭にあった。
 【セレンディピティserendipity】これなのだ!
 セレンディブSerendibというのは、アラビア人が呼んだセイロン(現在のスリランカ)の古名である。
 このセイロンの昔話に、おもしろい王子様がいる。しょっちゅうものをなくし、いつも捜しものをしている。しかも彼は、絶対に自分の捜しているものを見つけ出さず、きまってほかのものを見つけ出す。いってみればそんな特異才能の持ち主であるが、イギリスの著述家ホーレス・ウェルポートが、このセイロン(セレンディブ)の王子様にちなんで【セレンディピティ】の語を造りだした。したがって語の意は、「掘り出し上手」「思わぬ発見」といったところか。あるいは、「行きがけの駄賃」と訳して、当たらずといえども遠からずであろう。

 数ヶ月前の友人からの手紙を捜していて、手紙は見つからずに宝くじ券が見つかり、調べてみれば10万円の当たり券であったようなこと(本当にそんなことがあればいいのだが・・・・)などなど。

 やっと見つけた!
 脱線することも楽しいものである。
                                    2003年3月14日