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「人は死に方を選べない」 二月の末に67回目の誕生日を迎えた。 二月初めには、65歳で逝った父親の27回忌をすませた。 その法要を終えたからなのか、亡父を超えたという意識を強く感じた。もう67歳、やっと67歳になったのだとか、まだまだ67歳なのだというような特別な気持があってもよさそうなのに、日めくりを一枚めくったから、67歳になったという程度の思いしかない。 病気などは、はじき飛ばしてしまいそうな頑強な身体をもち、気力も満ちあふれていて、老人という感がまったくない隣人は、交通事故で逝ってしまった。 朝の挨拶を交わした向いのご主人も、深夜救急車で運ばれて、一週間もたたずして、霊柩車に乗せられて逝ってしまったのだ。 彼は、私と同年であったと聞き自分のことのように思えて言葉を失ってしまう。 なんとアッケナイことなのか。 死は常に後ろにいるという感覚が全身を駆けぬけた。 山田風太郎著「人間臨終図鑑」六十七歳で死んだ人々を開ける。 レオナルド・ダ・ヴィンチは自分自身について沢山の記述を残したのに、彼の死の状況はわからない。人は自分の死については記述できないのだ。その墓さえ不明。 松尾弾正。徳川吉宗。 与謝蕪村の病状は芭蕉に似ているが「どうもおれは、夢は枯野をかけめぐる、といった心境にははいれない」と門人たちにいった。 「国富論」を書いて古典派経済学の始祖となったアダム・スミスは、見舞にきた友人たちとの晩餐の席での疲労がいちじるしく、友人たちが、先に休んでくれというと「私はみなさんといっしょにいたいのですが、もうお別れしてあの世へゆかなければなりません」とユーモラスにいって、寝室に去りふたたび起きなかった。 ジョージ・ワシントンは秘書に「葬式はていねいにたのむよ。しかし私が死んでも、三日の間は墓に入れないでくれ。いいかね」と何度も念をおした。 川路聖謨(かわじとしあきら)は、幕末の名官吏で、中風により左手はきかないので、右手だけで作法通り腹を切り、次に拳銃でのどを撃った。日本における拳銃自殺の第一号か。 「モンテ・クリスト伯」「三銃士」を書いたデュマは、眠ったまま卒中発作を起こして死んだ。 福沢諭吉は「自分が死んだとき湯灌(ゆかん)などするに及ばぬ。衣服もとりかえるに及ばぬ。そのまま棺に納めてもらいたい」また「死顔を人に見せることはいやだ」といっていたので、見たのは近親者四、五人だけであった。 セザンヌは「私は絵を描きながら死にたい」といっていたが、その通りになった。 キュリー夫人。橋本折五郎。 「半七捕物帳」を書いた岡本綺堂は「昼もねて聞くや師走の風の音」の句を残す。 河上肇(はじめ)の直接の死因は肺炎だが餓死といってもいい。 寺内寿一(ひさいち)は脳溢血。 永野修身(おさみ)。河野一郎。 安井曽太郎は病床を離れて画架に向ったが、筆をおいたときは、立ちあがる元気もなく「まだ書き足りないけれど、これ以上どうしようもない」といった。それが最後の作品「秋の山」である。 壺井栄。平林たい子。 「暮らしの手帖」という雑誌を生みだした花森安治の告別式は、暮らしの手帖研究室で、デスクに白布をかけただけの祭壇に、遺影と骨壺のみが安置され、花で埋められたほかには線香も榊も神父の影もなかった。 「カサブランカ」「ガス燈」の気品にみちた知性的な美貌のイングリット・バーグマンは、私の好きな女優の一人であった。 インディラ・ガンジーは、護衛の警官に射殺された。遺灰は遺言により、飛行機からヒマラヤの山にまきちらされた。 と列記されている。 他に、幸田露伴は、娘の文(あや)と話をし「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」といい、その二日後に八十歳で息絶えた。その文は「お父さん、お鎮(しず)まりなさいませ」と両手をついてお辞儀をしたとある。 また、死んで不倖(ふしあわせ)になった人を、ひとりでも見たことがあるかね?(モンテニュー)幸福の姿は一つだが、不幸のかたちはさまざまだ、とトルストイはいった。同じように、人は、生まれて来る姿は一つだが、死んでゆくかたちはさまざまである(山田風太郎)死とは、モーツアルトを聴けなくなることだ(アインシュタイン)生者は死者の為に煩(わずら)わさるべからず(梅原竜三郎)老衰といふ死に方や冬の蠅(富安風生)もある。 官寺五山を罵り、みずからは酒肆淫房(しゅしいんぼう)に出入して女犯肉食(にょはんにくじき)、風狂のままに生きた一休は、晩年の十年、盲目の美女森(しん)を愛し「極楽はそなたのほかにない。そなたの恩を忘れたら、わしは死後畜生の身に落ちるだろう」と感謝した。一休は死するにあたって「死のとうない」といって、坐ったまま眠るように死んだ。八十七歳。 瀬戸内寂聴著「手毬」での良寛は、彼を慕う若い美貌の尼僧貞心とプラトニック・ラブともいうべき交わりをかわす。糞尿にまみれた躯(からだ)を清める貞心にすべてをまかす。そして、寒いという良寛の背後からぴったり添い臥す貞心の体温に、あたためられて眠る。地震の時、知人から見舞状をもらった返事に「災難に逢(あう)時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候」といった良寛も、やはり「死にとうない」といった。良寛の「死にとうない」は寂聴さんの創作であろうが、一休ともども修業した僧侶が言葉にしたことに、安堵にちかい心地がした。 年老いてから、若くて美しい女性(にょしょう)と心を通わすようになれば、死にたくないと思うのは、当然なことかもしれない。 長野県上田市の盆地を一望することができる小高い所に、日本美術史上に特異な足跡をのこしながら、肺結核や気管支喘息、食べるものも食べられぬ、貧困のドン底でみじかい生涯をとじた、画家たちの作品を展示する「信濃デッサン館」がある。 そこには、大正期に二十二歳、二十歳で他界した村山槐多・関根正二のほか、野田英夫・松本竣介らの作品がある。自分自身限られた命であることを知りながら、絵を描くことに全精力をぶつけた、ひたむきな思いに圧倒される。一分でもいいから生きていたい、そうすれば、一分でも絵がかける。という命を燃やした証がある。 信濃デッサン館を出て少し坂を登ると、卒業後もしくは学業なかばで、戦地に駆りだされて戦死した、画学生30余名の遺作や遺品をあわせて約三百点を展示する、戦没画学生慰霊美術館「無言館」がある。 そこは、反戦を意味する場ではない。絵としては未熟で未完成ではあるが、将来に夢と希望をもって絵を描いた、青春の記録が展示されている。望んでもいなかった戦争によって無惨にも将来を絶たれた彼等の鎮魂の場でもあると同時に、青春の命を燃した、彼等の純な心を賛美する場でもある。若くして散ってしまった、彼等の無念を思うと目頭が熱くなる。 二つの館には、短い命ではあったが、絵を画くという行為で、美を求めて生きていた人間の証はあっても、死の翳(かげ)りはみじんもありません。 人は死んでも絵は生きている。 いつであったか日時も、話の経緯も思い出せないが、あたたかな日の午後、見晴らしのよい山の中腹にある大樹の根本に座り本を読む。読み疲れて本を膝において眠ってしまい、そのまま死んでしまうのだ。獣や鳥の餌になり、やがて朽ち果てて白骨となる。ある日黒い雲とともに一陣の風が吹き、白骨はカラカラと音をたてて崩れ落ち、頭蓋骨は風に任せてコロコロと転って、ポチャンと池に沈んでしまう。あとは何事もなかったかのように風は止み太陽は輝き、一面に花は咲き鳥は歌う。そんな自分の死をイメージした話をしたことがある。 私たちは、自分の意志でする自殺行為を除いて、死に方を選ぶことはできない。 子は天からの授りものという。だからその生は天が支配し、死に方は天の意志に従うしかない。 願って叶うことであれば、私より先にかみさんを連れてゆかないでほしい。かみさんの骨を拾うことほど、この世で一番辛くて悲しいことはないのだから。 |
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