濫觴・一樹
徒然なるままに…
濫觴通信
2004年10月
47号
発行:市橋一樹
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【濫觴通信2004年10月47号】

「誤解七割」

 「たすけてください!」
 「私は、どうなるのでしょう!」
 「先生!」
 「なんとかしてください!」
 これは、腕を骨折して入院した孫と同室になった、老婆が発したことばである。
 初めて聞いたときは、飛び上るほどに驚いたが、看護士さんたちは「○○さん。大丈夫ですよ」と平然としているから、どういうことなのか不思議に思った。
 それを間欠的に発するのだ。
 言葉のニュアンスから、教養のある礼儀正しい家庭に暮らしていたのではないかと推測した。
 盲目と知ったが、どうも頭が尋常ではないらしい。
 若い看護士さん来た。
 「○○さん、どうしたの?」
 「□△××□□×」
 「おケツが痛いの?」
 「おケツのどこが痛いの?」
 オッ!オオオ!
 老婆に接するやさしい態度と、言葉のギャップに目を見張る。
 滑稽に近い驚きだ。
 そっと行って、「おケツ」ではないよと教えてあげようか。それとも同僚に伝えて、教えてあげようか。それでは恥ずかしい思いをさせてしまうから止めた。婦長さんならいいかと思ったが、それほどに大袈裟にすることもないかと見過ごした。
 病院で耳にした若い看護士さんを云々した自分も五十歩百歩であり、人のことなどいえないはずだと思った記事がある。
 文化庁の日本語世論調査により「げきを飛ばす」「姑息」「ぶぜん」について、70%前後の人が本来の意味とは異なる意味で理解していることが分かった。とある。
「げきを飛ばす」について、本来の「自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めること」とした人は15%にとどまり、「元気のない者に刺激を与えて活気付けること」が74%に達した。
「姑息」を本来の意味の「一時しのぎ」と答えたのは13%。74%が「ひきょうな」を選んだ。
「ぶぜん」も「腹を立てている様子」が69%に達し「失望してぼんやりとしている様子」という正答は16%。
 そうなんです。私も70%の一人だったのです。
「話のさわりを聞かせる」と使う「さわり」は本来の「話などの要点のこと」は31%。「最初の部分のこと」が59%だった。
 ほかに「物事の肝心な点を確実にとらえること」の意味で使う、慣用句を選ばせる設問では、正解の「的を射る」は39%。「的を得る」が54%。「実力があって堂々としていること」を意味する慣用句として「押しも押されもせぬ」を正答したのは37%で、「押しも押されぬ」との誤用が51%だったとある。
 好奇心が目を醒ました。
 調べてみるといろいろある。
「一姫二太郎」は「子を産み育てるには、長子は女で、次に男の子を生むのが良い」というのが本来の意味である。「子どもは女の子一人に男の子二人が良い」と間違って使われることがある。○○さんのところは「一姫二太郎」と聞いて訪ねたら「女一人に男二人の計三人だったので、持っていったおみやげが足りなくなって困ってしまった話がある。
「我慢」は「苦しさやつらさをじっとこらえること。忍耐」として日常使っている。日本国語大辞典を開くと「仏語。七慢の一つ。我をよりどころとして心が高慢であること。自分をたのんで自ら高しとすること。自分自身に固執して他人をあなどること。うぬぼれ」とある。いつから傲慢とか慢心とかの悪い意味でなく、良い意味での「じっとこらえること」に使われるようになったのであろうか。ついでに「がまん強い」を引いてみると1.高慢であるさま。また、我が強いさま。2.よく堪え忍んで辛抱するさま。忍耐力が強い。とあってどちらが本当なのか迷ってしまう。「我慢」を高慢の意味で理解している人は何%になるのか興味がある。
 遠慮したり気をつかったりする必要がなく、心から打ち解けることの意の「気の置けない」を、気が許せない。油断ならないと反対の意に使う若い人がいる。
「情けをかけるのはその人のためにならない」と誤まって解釈する人が少くなくない「情は人のためならず」は「人に情をかければその人のためになるだけでなく、巡り巡って自分にもよい報いがあるということ」で、情をかけると甘やかすことになるから、相手のためにならないとする若者がいる。「役不足」は「与えられた役が、その人の実力にふさわしくなく軽い」ことの意なのに、過分な、手に余る意での「私には役不足で勤まりません」の挨拶がある。
「他力本願」は「仏語で、一切の人を救おうとして立てた、阿弥陀仏の願の力によって成仏する」こと。だれかがしてくれることを期待して、自分は何もやらない意に用いることは誤用である。
「どこでも住みなれるとよいところがある」の「住めば都」も「住むなら都がよい」の意味に間違えられる慣用句である。
 ある会合で「○○先生にご出席いただきまして、この会も「枯木も山のにぎわい」です」と挨拶があって、先生も同席者もあぜんとしてしまったという話もある。
 歌は世につれ、世は歌につれということのように、時代時代で価値観や言葉遣いも変ってくることは仕方のないことで、抵抗も反発もしないが、TVのリポーターが漁船に同乗して、船上で獲った魚をみて「生きがいいですね!」とか「新鮮ですね」とか感動したふりをする。言葉の使い方を知らないことに、画面が白けてしまう。
 又、ニュースキャスターなどもアレッ? 変だぞ! と思う言葉を使うことがある。TV局では彼等をチェックしたり、生きた言葉を使う教育をしているのか、どうなのかを思ってしまう。
 TVでも巷でも「とてもおいしい」を「チョーおいしい」「全然おいしい」という言葉が氾濫している。この「全然」というのは、物事の様子を強調するために使っていることだと、深読みしてみたけれど「全然明るい」とか「全然大丈夫です」や「全然似合いますよ」などと使われると。違和感を覚えてしまうのは私だけなのか。
「全然」と表現するのは21%。
「全然」は本来、否定と結びつくが、文化庁によると、夏目漱石らが肯定の用法として使った例もあるという。
「すごく速い」を「すごい速い」というのは46%。六十代以上も34%を使い、言葉に対する抵抗感が薄れている。との調査もあった。
「すごい速い」は日本語なのか?
 文化庁は、この用法は江戸時代にもみられた現象とし「現代の文法では誤用だが歴史的には間違いとは言えない」とする。
 ほかにも「なにげなく」の代りに「なにげに」を使う人は、全体の24%で、同じ設問で尋ねた一九九六年の調査で十人に一人だったのに、今回は四人に一人の割合に増えた。年齢差を示す「一コ上(いっこうえ)」を使う人も過半数となり、若者言葉が徐々にほかの世代にも浸透してきていることを調査は示した。「すごい速い」とか「なにげに」とか「一コ上」という不思議な言葉が飛び交っていることを初めて知った。
 物事を初めて知った時は嬉しいものだが、「なにげに」とか「一コ上」を奇異に感じるのは、世情にうとい頑固爺になってきた現れかもしれないと淋しく思った。
「一コ上」とは、箱などを積み上げた物を指すときに使う言葉で、たとえ一歳であっても年長者を指して言う言葉ではない。人を人として思わずに物としてしまう礼儀知らずも甚だしい上、心の貧しい恥ずかしい言葉なのだ。
 それを二十代までは80%以上で四十代も63%、五十代の39%の人が使っていることに落胆した。二十代ならいざしれず、世の中の大事な位置にいる五十代の人が使っているとは、世の中が痩せ衰えてゆくような気がしてならない。
 時代も刻々と流れ生きている。その中で暮らす人の言葉も時代と共に生きている。したがって本来の意味とは異なる意味での言葉があっても仕方のないことである。そんななかでの若者言葉も一種の流行で時と共に消えるであろうから、目くじらをたてることもないが、若者言葉に侵されてゆくことに抵抗を覚えるのだ。

2004年10月

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