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入院して考えたこと「食」 病院の食事は「まずい」と聞いていたから、それを鵜呑みにしてふりかけ・味付海苔・梅干などを用意して入院した。 手術を受けたN病院では、毎日の朝昼夕食毎にAかBかを選ぶことのできる献立表があって、希望したものが届けられる。 そのせいかもしれないが、少々味付けに物足りなさを感じたものもあったが「まずい」という食事はなく、持参したふりかけや味付海苔などを使うこともなく退院することができた。 ただ一度だけではあるが、麺類を食べたくなって蕎麦を選んだとき、うかつにも調理されてから配膳車に入れられ病室まで届く時間を考えなかったので、蕎麦は伸びてしまいおまけに汁もぬるくなりひどいものになってしまった。自分の失敗だからまずいと思っても残さずに食べざるをえなかった。 ヒーター入りの配膳車とはいえ調理場からの時間を考えれば、熱いものを望むことは無理なことで汁物などがぬるくなっても仕方のないことである。 そのぬるくなったことや、味付けの物足りなさを「まずい」といったのかもしれないと思われる。 N病院では、汁物などがぬるくなることを考慮したものなのかわからないが、毎食熱いお茶が手配される。熱いお茶をすすると不思議と心が平らかになる。 やはりお茶はいい。 お茶は紅茶やコーヒーとは違うものがあって、日本人の食事には欠かせないものである。 ここでいう病院食のことは、食事について云々し制約されることの多い糖尿病などの内臓疾患ではなく、膝関節の手術を受けて、制約されることのない普通食を摂った体験から考えたことである。 病院食は本当に「まずい」ものなのか、私はそうとは思えない。なぜなら世の中にまずいものは、そんなにも多くないと思っているからである。 人は何をもってうまいとかまずいというのであろうか。 それぞれの家庭には、その家の味があり、その普段の食事に子供の頃の味の記憶と外での食事の経験がミックスされて、その人の味覚の基本ができる。それがその人の好みになり、食べたものが口に合うとか合わないとかいうことになる。 その人の口に合い満たされたと感じたものを「うまい」といい、そうでないものを「まずい」というのである。 他の人がうまいといわれたものを食べても、同じ様にうまいと感じないこともあるから、うまいとかまずいとかいうのは確しかなものでなく曖昧なものである。 うまいとまずいに二分割してしまうけれど、その間には似ているようで同じではない「うまくない(おいしくない)」と「まずくない」があって、その底にまずいものが沈んでいる。 健康な時にうまいと思っていたものでも、風邪をひいたり、熱があったときなどまずいといって口にしないことがある。たまたま体調が悪いからうまいと感じないのだから、まずいという言葉の使い方を誤まっているのだ。 「あれはまずい」というほとんどのものは、「うまくない」という言葉を使うべきで、まずいというのは使い方の誤りであると考えている。 うまいとかうまくないとかを感じさせるのは、素材や調理方法や味付などが問題であることを否定はしないが、それ以上に食べるときの環境というか状況によって高まったり冷えたりする感情が、味覚を良くも悪くもさせる大きな要因ではないかと思う。 その最たるものがキャンプでの食事である。 石を積んでカマドを造る。薪を拾い集めたり、飯盒に米をとぐなど食べるまでの準備は共同作業であるから、子供たちは大騒ぎとなり気分は高揚してくる。飯盒の飯が少々こげていても、素適な器もなく紙のお皿であったとしても、、日頃食べているレトルト食品のカレーが一段と「おいしく」感じられるから不思議である。 青い空、山の空気と木々の緑。テーブルもなく石に腰かけたり、地べたに座って食べる。家の中では味わうことのない開放的な環境から受ける感覚が心地よく脳細胞を刺激する。 全身麻酔の手術を受けた孫は、麻酔が醒めて病室に帰ってきたものの、臓器は醒めていないから、それまでの数時間は水を飲むことを止められた。やっと許しがでて水を飲んだとき「うまい!」と大きな声を出した。 それは名水と呼ばれるものでもなく、特別に処理されていたり味付けされたものでもない、いつも飲んでいる普通の水である。 待ちに待った水を飲めた嬉しさと、渇ききった口が潤を得た喜びが、味覚という感覚を越えて心が言わせたのである。 病院には、患者が集まって談笑しながら食事をする施設はない。患者はパジャマ姿のまま、ベッドの上に座るか腰掛けるかして、患者同士との会話もなく黙々と食べる。ベッドが並び絵も掛っていない殺風景な病室は、色彩に乏しく食べるものをおいしく感じさせる環境にはなっていない。 退院できないでいることは、まだ治療が必要とされる体に変調があり、食べたものをうまいともまずいとも思わない味気無さと、うまいものを食べたい意識があるが為に「まずい」と言わせるのだ。 病院に対して、診察や治療に関して云々することに異論はない。しかし、食事に関して注文をつけうまいものが食べたいとか、なんだとかいうことは我儘なことであり、ないものねだりに等しい。 うまいものを食べようと思ったら、早いとこ治して退院することである。 と、ここまで書いたところで忘れていたことがあった。 孫の入院中に、オヤツが出た。見舞にゆく度に、今日はこれだった、昨日はこれだったと大喜びしていた。オヤツが出るとは思ってもみなかったことなので、病院の気配りを感心すると共に、孫と一緒になって喜んだものだ。 治療とは関係のないことではあったが、膝の手術を受けるのならN病院であると決めた理由の一つでもあったことを思い出した。 私の入院中、食事に少しではあるが炒り豆がついたので、今日は節分なのかと気がついた。雛あられがついたときは、改めてカレンダーをみて、今日は雛祭りなのかと気持ちが和み、その日の食事をおいしく感じたことがあった。 これから大人の患者にも病状に合ったオヤツを出したらどうだろうか。だれもが頬をゆるめるにちがいない。塞ぎがちの人の気持が少しは晴れるかもしれない。痛みのある人は一時ではあるが、その痛みを忘れることができるかもしれない。 誕生日には「おめでとう」の言葉を添えてケーキをプレゼントしてみよう。同室の人にも「今日は○○さんの誕生日です」のメッセージと共にケーキをお裾分けするといい。大仰なケーキでなくていい。ささやかな真似事のようなケーキでもいいのだ。顔がほころび会話が生れ、その病室は雲がきれ日が差し込んできたように、明るい空気に包まれることにちがいない。 病院として医療機器を充実し、確実な診断と治療能力の向上を目指し、患者の安心と信頼を得ることに力を注ぐことは当然なことであり、してもらわなくてはならないことである。 それに加えて思いもかけない病気に付合わなくてはならず、治療に明け暮れる入院生活の単調さに少しでもアクセントをつけることができれば、精神的な治療の一つになるであろう。 絵を掛けることも一つの方法ではあるが、色の持つ心理的効果を考えるなら、色彩の乏しい病室に色を加える方法がある。 季節の行事や誕生日のお祝いなどは喜ばしいアクセントになるであろう。欠かすことのできない三度の食事の献立を工夫することも大切である。それに伴いおいしく感じさせる為の環境づくりや演出も考えなくてはならない。それらによって嬉しく感じた心や癒された思いなどと、食事が「おいしかった」という満足感は、自己治癒力を高め投薬と同等、もしくはそれ以上の効果を期待できるものと考えた。 2005年6月
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