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「私の山」 思いおこせば今から十九年前の昭和62年の正月のことだった。 突然! 字を書きたい衝動に襲われた。その思いは激しく押さえることができない。体が破裂しそうだ。 筆はある、墨汁もある。ただ紙がない。家中探しても和紙に類する紙がない。どう探してもない。 そうだ! これでいい。トイレットペーパーだ「色はにほへど散りぬるを、わが世たれぞ常ならむ ・・・・・」これが私の書の始めであった。 あの突然の気が狂ったような衝動は何だったのか、訳のわからない不思議な感覚であった。 それから硯、墨、筆、紙を揃えて書きだした。感じた漢詩があればそれを。いい言葉に出会えばそれをと、心が昂ぶるままに書き続けていた。いい気分である。それを何とかしようという気はさらさらなく、止むに止まれない心のままに書いていただけだから、当時のものは何も残ってはいない。 そんな時、ある書のグループに紹介された。暫くしてグループ展に出品することになった。展覧会場で自分の書を見て、正視できないほどのひどい出来に愕然として、作品をはずして逃げだしたい気持ちになった。他の人からの評価は好意的であったけれども、自分自身としては、評価するまでもない無様な気持に打ちのめされてしまったのだ。ボクシングに例えれば、開始のゴングで飛び出したとたん、一発ストレートでノックアウトされた感じである。 大変な世界に首を突っ込んでしまった。しかし引き返すわけにはいかない。せめて4ラウンドくらいは闘える字を書きたいと強く思った。 どうしようか。 自分で歩るくことが当然のことと思っていたから、師を求め教えを請う気は少しもなかった。展覧会と称するものは、分野を問わずに見て回った。手にするもの見るものから盗むより方法がなかったから。その頃から、興味をもった本を片っ端から読みだしたことも思い出した。 ある書の展覧会は、主催する師匠のコピー展のようだった。お仕着せの制服で並んでいる有様だ。別の展覧会では、勇ましい詩も、叙情的な詩も同じ字である。字を読まなくては勇ましさが伝わってこない。 看板屋として手で文字を書いていた頃(今ではコンピュータ)、「きれいでセンスの良い当店で」という、きたなくて下手な、およそセンスが良いとはいえない看板が反面教師となって、「きれい」はきれいに。「センスの良い」はセンスの良いと感じさせる看板でなければいけないと教えられた。だから、建設業の看板は骨太の力強い感じの文字で、洋装店は優雅でやさしさを感じさせる文字を書くよう工夫していた。内容によって書き分けることがプロの看板屋の仕事と思って30年近く書いてきた感覚が、勇ましい詩は勇ましさを感じさせて欲しいと思ったのかもしれない。 書を見る私の意識は、書の概念とは少しずれているかもしれないが、いい作品からは何かが伝わってくるものである。 八ヶ岳の音楽堂(名前は忘れてしまった)で武満徹の秋庭歌一具(雅楽)を聴いた。緊張感のある優雅で繊細なすばらしい時空に酔いしれた。そして今までに聴いた音楽では感じなかった、音から音へ移る音のない空間を美しく表現する、武満徹の音楽に魅せられてしまった。まさに余白の美しさを描く絵と同じである。「音の無い音は美しい」と私は書いた。 オランダのクローラー・ミューラー美術館で、ゴッホの一般的に知られている作品ではない、門外不出の作品を見た。見ているうちに体が熱くなってきた、ゴッホのすごさに体が反応しているのだ。中でもデッサンから強い刺激を受けた。目に見える姿や物を越えて、貧しい農民が苦しく辛い生活や、辛い労働に耐えて生きている心が描かれている。 それ以前に、ジャコメッティのデッサン(画集)からデッサンは目に見えるものを描くのではなく、内面を描くものだと感じさせられていた。目の前のゴッホのデッサンは印刷された画集ではない現物だからなのかわからないが、目に見えない苦しい辛い心が生々しく伝わってくる。 漢詩などは音楽と同じで、自然の雄大さや美しさ、事にあたっての心意気などを表わしたものであり、それを書くということは、その詩のもっている情感とか感動した雄大さを、文字を通して表わすことだと考えた。 品格のある文字。厳しさや激しさを感じさせる文字。その人の人となりが表われている書を見てきたが、詩とか言葉の内面を感じさせてくれる書には、まだ出会ってはいない。 それを求めるのは、私の欲張りな心かもしれない。 書けるとか書けないとかは別にして「文字の中に、見えない内面が書けたら最上である」という書に対する意識が定まったのが、ゴッホのデッサンであった。 昨年の春、和歌山の盛岡成好さんの陶房を訪ねた時、平成18年開幕の企画展は「南蛮焼締」の陶芸と私の書の二人展でということになった。賑やかな夕食後、成さんの発案で一人一字ずつ書くことになり、同席の八人がそれぞれ書いた。突然のことで皆んな戸惑ったが、書かれた文字はそれぞれの人柄が表われていて面白いものであった。そこで由利子さん(盛岡夫人)の強い後押しがあって、盛岡さんとの二人展となったわけです。それはリウマチで気力の衰えてきた、私を励ます意のことと感謝する。 さて、何を書こうか。軽いプレッシャーを感じながら、書く気が満ちてこないまま、夏も過ぎ秋も終わりに近くなってきた。 今回は干支を書くという具体的なテーマもなく悩んだが、私の意とするものを書こうと「遊」の字を選んだ。一ヶ月書き続けたが書けない。遊の文字は書けても、字が遊ばないのだ。書けば書くほど泥沼にはまってゆく感じだ。この膠着状態から抜けでる為に、頭をからっぽにしようと、十日ほど筆も持たず考えることも止めた。 それから金文の「子」を書いてみたら、それぞれ表情の違う子等が集うものが書けた。ちょっと調子がでてきた。次に「山」を書いたが、これがなかなか難物で反故紙が溜まる一方で、書けそうで書けないのだ。ようやく合格した五点の中から一点を選ぶ。 この調子ならばと遊を書いたがやはり遊んでくれなかった。 遊にこだわると元に戻ってしまいそうだ。裏打ちも額装も自分でするから、展覧までの日数を考えると心配だが、もう一度筆を置くことにした。 遊びから離れてみようと、忙中閑有り、苦中楽有りなど六中観を書くうちに、肩の力が抜けていった。軽い気持で「風」を書いたら風が吹いたのだ。いい気分になった。その気分のままに「遊」を書いたら、遊んでくれた。楽しくなって「楽」も書いた。そんなこんなでやっと展覧に間に合った。 山を見ていた方が呟いた「こりゃ、桂林の山だ」と。よほど注意しないと聞こえないほどの声であったが、私にはその声がはっきりと聞こえたのです。その方は感想を話すこともなく山を見ている。沈黙の背中は私に話しかけているようだ。「そうなんです。山の字形で山を描いたのです」。私の意とするものが形となり、見る人に通じたのです。 これでゴングと同時に、一発のストレートでノックアウトされた時と比べれば、8ラウンドまでなら闘えることができるのではないのかと嬉しく思った。 リウマチの発症以来、薄雲がかかっているような日々に、雲間から陽が差し込み明るくなった心地がした展覧であった。 有り難うございました。 |
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