濫觴・一樹
徒然なるままに…
濫觴通信
2006年9月
53号
発行:市橋一樹
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【濫觴通信2006年9月53号】

「一休骸骨」

 怖い!
 怖くて息もできない!
 心臓は高鳴り破裂しそうだ。手も足も全身震えて止まらない。寒くもないのに寒くて寒くて仕方がない。家中眠っているから声も出せない。布団をかぶって縮じこまっているだけだ。
 何んとかしなくちゃ。
 夕飯はなにを食べたのか、思い出せない。数学の問題を解いてみよう。だめだ。学校で面白いことがあったか思い出してみよう。などなど気持をまぎらわす為に、よそごとを思うようにしたが、集中できなく中途半端で恐怖と混って頭の中は大混乱となる。今作っているグライダーの翼の取付は大丈夫だろうか、他にいい方法があるかもしれないなどと考えているうち、幼児が泣き疲れて眠ってしまうように、知らぬうちに眠ってしまった。
 翌朝、目覚めたが昨夜の恐怖の後遺症はない。四五日何事もなかったが、ある日、布団に入るとまた恐怖が襲ってきた。
 真っ暗闇の中に自分が居る。その自分がだんだん小さくなってゆく。どんどん加速がついて猛スピードで小さくなってゆく。やがて見えなくなってしまうが、それでも自分が居る。それは奈落に落ちてゆく感覚ではなく、星のない真っ暗闇の宇宙の中に吸い込まれてゆく感覚なのだ。
 音のない途方もなく深い暗闇の宇宙の中に消えてしまったのに、見えもしない自分が居るという異様な感覚に怯えた。
 間欠的に襲ってくる恐怖をまぎらわしたり、耐えていたりを繰返しているうちに、身体の震えは弱まってきたものの、こんなことを繰返していると気が狂うのではないかと思ったとたん、別の恐怖が強烈に湧いてきた。
 それは確かな記憶ではないが、中学三年か高校一年生の頃ではなかったかと思う。
 当時、子供の科学という雑誌を読んでいた。分子や原子力。飛行機やロケット。自然や地球のことに続いて宇宙のことがあった。その中で地球最後の日があって、太陽に吸収されるとか、巨大彗星が衝突するとか、何万年後には消滅してしまうとあった。内容がどうであったか確かな記憶はないが、地球が消滅してしまうことは確かなことである。
 それを読んだ時は、どうということもなかったが、数日後、自分が死ぬという恐怖とは異なる、別の桁違いの恐怖が襲ってきた。
 アインシュタインの理論も、ピカソの芸術も、人間が築いてきた文化や文明、思想や歴史も、神も仏もみんな無くなってしまう。地球が消滅するという想像もしていなかったことを知った衝撃で、歯の根は合わずガタガタ震え、居ても立ってもいられないどうしようもない恐怖に怯えていた。
 その怯えが真っ暗闇や、何も見えない乳白色に包まれ、差し出した自分の手さえ見えないという、幻になって現われた。
 この恐怖から逃れるために、誰れかに訴えて救いを求めてもよさそうなものなのに、何故かそれはしなかった。
 飛行機作りに熱中し、高校では美術部を創部して、部活に意欲を燃やしているうちに、地球消滅を考えても仕方のないことだと諦めに近い気持ちが出てきて、時間が怯えを和らげてくれた。と同時に消滅してしまうといえども、生きている限り、何をするにも懸命にしなければいけないという気持ちが芽生えてきた。
 そして死について考え始めた時期でもあった。その少年時代に考えた死も、古希を迎えようとしている今も、大差なく根本的には同じである。
 人は死を永遠の眠りにつくという。そこは色も形も音も自分も居ない、何もない世界なのだ。眠りから想像できる何もない未知の世界に入り帰ってこられないことに人は恐れるのだ。だから死を恐れることになると考えた。
 世界には様々な宗教がある。共通していえることは、死への恐怖や、生きることの苦み辛さを救うということだ。それが為に天国とか地獄、来世とか西方浄土とかを説き、念仏を唱えなさいとか、神を信じなさいということになる。
 それを信じることを否定はしません。信じることのできる人はある意味で幸せなのかも知れない。時節には墓参りをし、毎朝仏壇にお経をあげるだけの葬式仏教徒の私だが、神も仏も人間が人間の為に考えだしたものと考えている。
 この考えは間違ってはいないと思ってはいるものの、宗教的な教えを聞いたり勉強した結果としてでなく、感覚としてとらえたものなので、心もとない気持ちを持っていた。しかしそれは間違っていないことだと裏付けて安心させてくれたものがある。
 高貴な女人に与えた法語が原型のようであり、弟子たちによって次々に加筆され、増広されて、現形になったといわれている「一休骸骨」の絵巻物の復刻版(禅文化研究所発行)がそれである。
 全部は紙面の都合でできないが私が感じ入ったものを紹介する。
 まず巻頭に、
 九年まてさせんするこそ地獄なれこくうのつちとなれるその身を
 達麿が九年間も座禅をしたのは、地獄以外の何ものでもない。虚空の塵にひとしい自由の身を、わざと苦しめたものである。六祖慧能の本来無一物の歌をふまえる。座禅を苦とする思考は、臨済録の示衆にも見える。(柳田聖山訳注)
 この九年まで云々は、安易な座禅を戒め、本来の座禅をせよと、風狂に生きた一休らしい、逆説的な表現だと私は受取った。
 仏心とも、心仏とも、法心とも仏祖とも、神とも、もろくの名はみなこれこなたよりなつくるなり。かよふのことをしらすんはたちまち地獄にはいるなり。
 仏心とも、心仏とも、法心(法身)とも、祖仏とも、神とも、もろもろの名はすべて、こちらからつけたものにすぎませぬ。この道理が分からなければ、すでに地獄にいると同じです。(訳注)
 この文言で、不確かであった私の心は納得し、考え方は定着しました。そして嬉しささえ感じた。
 ……誰れだって、骸骨でない人はいませぬ。それですのに、五色の皮(五欲の皮だろう。五欲は、色声香味触という、欲望を引き起す五つの対象)につつまれて、互いにさすりあうあいだだけ、男女の色気もあろうけれど、ひとたび息がきれ、身の皮が破れてしまえば、もう色気も何もありません。上下(社会的な身分の上下)の姿も、区別はつきませぬ。今、大事そうにさわっている皮の下に、あの骸骨が包まれているのだと思って、その念を信仰することです。(柳田聖山訳注)

 身は死ねともたましひはしなぬは、大なるあやまりなり。悟る人のこと葉には、身もたねもひとつに、しぬるというなり。
 これこそが私が待ち望んでいた答えなのです。
 身体が灰になるとき魂も燃えてしまう。死の世界は、色も形も音も自分もない何もない空間であると考えていたから、「身もたね(魂)もひとつに、しぬるというなり」は、私の考えがかけ離れていないことを示してくれた。死を永遠の眠りにつくというのは間違ってはいないと確信する。
 心が体から離脱して自分が横たわっている姿を見下ろすとか、暗い洞窟をぬけて明るい光の世界に入り、かつて味わったこともない至福の体験をするとか、美しい花園や三途の川を見たとかいう、臨死体験談があるが、それは浄土とか極楽に通じるものではない。その先にある何もない死の世界へ行く途中の一里塚なのだ。
 私は体験したことはないが、死の世界に旅する途中が楽しいものならそれはそれで良いことだ。
 願わくば、もがき苦しむ死様を見せて、家族に辛い思いをさせたくないから、砂時計の砂が尽きるように終わりたいものである。

2006年9月
※太文字は一休骸骨本文