濫觴・一樹
徒然なるままに…
濫觴通信
2007年4月
55号
発行:市橋一樹
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【濫觴通信2007年4月 55号】

私的漢字考

 文字を扱う看板屋の仕事柄からなのか「漢字まんだら」の表題に惹かれて手にした本を読んで、漢字の成り立ちに強い興味を持ったのが数十年前のことであった。
 その本は、TVの11PMで藤堂明保の文字の話と、女流書家の望月美佐の書とによる番組をもとにしたもので、エロチック漢字考と表題を替えても良い内容である。その面白さに好奇心が刺激され、文字の成り立ちを詳しく知りたくなり、その門を叩いたのである。
 最初に藤堂明保著「漢字語源辞典」を買い求めた。
 そこでは文字を「つきとおる」「そろって並ぶ」「ブルブルとふるえる」というように、単語家族という方法で分類している。
 士は、男の性器が立つ象形文字で「立つ、立てる」に分類する。
 色は、思・偲・司・息・塞と同じに「狭い穴、狭い穴をこする」と分類。色の篆文は、男と女が体をくっつけたさまで、性交そのものを表している。すなわち男の性器が女の性器をこすって塞ぐのである。従って色と塞は同系の言葉であるという。
 男の文字は、田と力の会意文字で「中に入れこむ」と分類。当時の中国社会は母系制度を保っていて、男は外から家庭に入りこんで労働力を提供するものであった。
 南()の文字は、植物の芽生えを示す 印を、両側からそれを囲う(今で言う霜よけ)姿で、囲いの中へ暖かい太陽をとり入れる。霜よけは南に作るので方角の名になったとあり。中に入れこむことで男(ナン)と南(ナン)は同系であるという。
 笑は「ちいさい、けずる」に分類され「竹+夭」の会意文字。哨と同系の言葉で、口を小さくつぼめて、ホホと笑うことであろうと言っている。
 なぜ「竹+夭」が口をつぼめて笑う形なのか、なぜ「ちいさい、けずる」の中に分類されるのか、納得しかねてしまう。
 読み始めは、動物としての人間の本能である性に関わる文字が生まれても不思議はないと思って、ニヤニヤして読みすすめていたものの、単語家族の文字毎に、釈然としない何かが蓄積され笑の文字にてそれが飽和状態になってしまった。
 私の知る限りでは、色の文字は……色と変化してきた。「色の篆文では、男と女が体をくっつけた………」という解説であるが、の篆文では体をくっつけた様子はわからない。
 その形はであろうから、篆文といわず甲骨文または金文というべきだと思う。そして思も色と同じ単語家族に入っているが、それは音からと説き、下につく心は無視されている。思のもっている意味と、狭い穴に分類されていることの違いを考えると、表意文字としての文字を語るに形を無視してもよいのだろうか。又、単語家族とする分類方法にも違和感を覚えたのである。
 行為の良否、未知なるものに対する不安などから占った結果を記録するために文字(甲骨文)がうまれ、時代を経て金文に変化したことを知ったから、疑問を持つようになったのかもしれない。
 単語家族の文字は、字形でなく音、ことばの共通によって分類されている。藤堂明保は漢字は表意文字であるとしても、字形は手がかりに過ぎないと言っているから、形から生まれた山や犬、牛がどの様に分類されているか、調べてみたが載ってはいない。
 素人の私が考えるに、言葉を伝え記録する手段として、姿や様子を文字にした象形文字の山や川や馬など。形のない一、二の数や上、下などを文字にした指事文字。それらを組み合わせて作られた会意文字(食+虫の触)。(亥(ガイ)+骨の骸)の形声文字と、用法として仮借と転注があって、音がかわっていても形が言葉の意味を表す基本だと思っている。
 例えば、この先に危険とかなにか不都合なことがあると察知された時「ヤバイ」という言葉が使われる。それも最近では物を食べたとき、こんなにも美味しい物を食べると、後の物を美味しく感じられなくなってしまうかもしれない、というような意味で「ヤバイ」と使われることがある。
 仮にヤバイという言葉が生まれたとき、刃物は危険な物で傷つけて血を流すこともあるということから、その文字を刃と血を組み合わせて「」(私の造字)の文字を作ったとする。それから数百年の時を経て最初に使われた意味はなくなって、美味しいものを食べた時や、素晴らしいことに出合った時などに使われるようになったとすると、ヤバイという言葉を頼りに「」の文字の推理は無理なことと思う。
 以上例えとしては適当ではないかもしれないが、文字は形であるという私の考えを表した。
 ここまで考えて本の題名が「漢字語源辞典」で、字源でなく語源であり、字典でなく辞典だったことに気がついた。この本に字形の解説を求めたことが、見当違いなことだったのかとも思う。しかし学者の著したものを素人の私が云々したところで太刀打ちできるものではないと承知していても、釈然としないものを振り払うことができないでいた。
 何気なく入った書店の棚で、これを読んでみなさいといっているように感じた本が、白川静著「文字逍遙」であった。
 その中で文字の作られた背景には神が存在し、神に対する祭祀、儀礼、神霊や悪霊にする呪術。その為の呪器などから文字が形づくられていることを字例をあげて説いていて、文字の成り立ちに興味をもった本ではあるが「漢字まんだら」を読んで面白がっていた自分を恥ずかしく思った。
 そして藤堂明保が白川静著「漢字」によせた書評に対して、王の字形を例にしてその解釈を批判。「……藤堂氏の著書をみていると、氏が果たしてト文(甲骨文のことか)、金文について知識があるのかと、疑うべきところが甚だ多い」と痛烈にいっている。
 「男と南での母系制度云々には、その時期の継統法や社会条件からみて、いまでは完全に否定されていることだ」と論破している。
 「………このような字形に対する無頓着さはその文字研究において、資料の精査と検討が行われていない証左である。氏のいう漢字の漫画的理解からいえば、形などどうでもよいのであろう。市井の物好きのいうことならば知らず、とにかくあきれた話である」と言い切っている。
 以下、白川静著「字統」「字通」「常用字解」の三冊を読み合わせたものを要約してみた。
 士()は象形。小さな鉞(まさかり)を下に置いた形。それは実用の武器でなく、士の身分を示す儀礼的なものである。
 色は、藤堂明保と同じように、人が交わることをいうとある。
 思()は形声文字。もとの字はに作り、はひよめき(幼児の頭蓋骨の縫合部分)の形で、その中は考える働きをする脳のあるところであるから、心を加えて心にて「おもう、かんがえる」の意味となる。
 男()は、田と力を組み合わせた会意文字。力は筋力の字でなく(すき)の形。田と農具のとを合わせて耕作することを示す。古い用法では農地の管理者を男と言った。
 南()は象形文字。古く長江中流域に住んでいた苗族の使用した銅鼓(楽器)を懸けた形が南である。苗族はこの胴鼓を南任(なんじん)と呼んでいて、のちにその音をかりて方位の「みなみ」の意味に用いる。
 笑()は象形文字。巫女(ふじょ。神に仕えて神のお告げを人に伝える女)が両手をあげ、身をくねらせて舞い踊る形。両手をかざした様が竹の字形になり、下の夭(くねらす)は、人が頭を傾け身をくねらせて舞う姿。神に訴えようとするとき、笑いながら踊り、神を楽しませようとする様子を笑といい「わらう、ほほえむ」の意味となる。
 白川静の著書に出合って読み考えることで、積もっていた釈然としない得体の知れないものが取り払われた心地を得たのである。
数十年前、愛知大学で氏の講演会があり拝聴した。学者的権威を感じさせない平易な言葉で、長江が悠然と流れるように話され、感銘したものであった。小柄な氏が話されている姿は、倍にも三倍にも感じられ、こらが人間なのかと強く感じたことを思い出した。
 その氏も昨年十月に、鬼籍の人となってしまいました。

                                  (文中敬称略)2007年4月