【濫觴通信2008年1月56号】
あけましておめでとうございます

今年の干支は、十二支が一巡して最初の子(ね)に戻って戊子(つちのえね)となり鼠年といわれます。
十二支が一巡したとて、十二年まえに帰るとは思わないが、この十二年間の産業や社会の変わりようの速さは人間(特に高齢者)の変化に対応する生理的感覚を越えているものがあります。
中日新聞の中日春秋で、奈良時代の万葉歌人、山上憶良の言葉である「歳月競い流れて、昼夜を息(や)まず」が紹介されていたが、月日の過ぎゆくのは早いもので、子(ね)のことをかいたのは数年前のことだったような気がするのも、時代の流れかも知れません。
好かれることなく嫌われるだけのネズミも大国主神が火に攻められたとき、ネズミに助けられたと「古事記」にでている。また神話、伝説、民俗のなかで害獣にもかかわらずネズミは尊ばれ愛されている。ことに白ネズミは大黒様のお使いといわれ、めでたいものとされている。正月の松の内の間「嫁が君」と言い、俳句では新年の季語となっている。
ネズミのおめでたい話しで、新年のご挨拶といたします。 平成二十年 元旦
出会い
「いい本に出会ったよ。偶然というのは楽しいものだ」とある人がうれしそうに言った。
私は相槌をうったものの、後でよく考えてみるとそれは必然的なことではないのかと思った。
見知らぬ人と会い会話を交わしたり新しい物事に接した後、あの時は嬉しかったとか、それが糧になったとかいう気持ちが、いつまでも快い記憶として忘れないようなときに、いい人に出会ったとか、いい出合いがあったと言います。
彼は石につまずくように本に出会ったのではない。期待はしないがなんらかの本があるかもしれないという軽い気持ちがあったから本屋に入った。本屋は買ってもらう目的で書架に並べたのだからお互いが呼応した必然であると考えられる。
捜し物をしていて、それではない他の面白いものを見つけた時を、偶然と言うのかも知れない。しかし物を探す行為があったからのことだから必然と考えてしまうが、どちらだろう。
何時の日にか機会があれば、偶然か必然かを語り合ってみるのも面白いことである。
七十歳を過ぎた今日までいろいろな出会いがあったけれども「かみさん」と出会ったことが一番である。何故なら現在私があるのは「かみさん」がいたからである。照れ臭さもあって口に出しにくいから、ここで有難いと思っていることを書いておく。「もうやめた」と宣言されることのないようにと願っているが、このままなんとかやていけると思っている。
二番目は、陶芸作家の森岡成好さんとの出会いである。森岡さんとの出会いからのお付き合いがなかったなら、濫觴は生まれていなかった。まさに濫觴誕生の出会いであった。
それは二十年前程のことで、当時は商店の販促用品や季節のディスプレイ用品を扱う店でした。クリスマスの装飾が始まる時期となったある日、参考のために東京のデコレーションを見にでかけた。あちらこちら休憩する間もなく、歩きに歩いて疲れ果てて渋谷まできた。喫茶店に入って休もうという気もおきなく、なんとはなしに百貨店の画廊に足が向いた(なんとなく足が向いたことが偶然といえるのかもしれない)。
そこには本物の稲が架けられ、焼締めの大壷に実を付けた柿の枝が入れられている。床一面にむしろが敷かれ、焼締めの作品が無造作にころがしてある。権威や名声の裏付けを必要としない、人の心を捉えて放さない自然の力を感じさせる、今まで知っていた陶芸とは違う別の陶芸の世界が展開されていた。
そして絵画や音楽、映画から受ける強い感動とか感銘という言葉では表せない、静かで内容のある味わいに魅せられた心地が全身に満ち、心の疲れと一緒に体の疲れも一気に消えてしまった。
以来、案内状をいただいた個展の追っかけをしていて、森岡成好という人間に強い興味を覚え陶房を訪ねることとなった。
そこは作品から想像していた通りの自然体の佇まいである。家に入れば軟らかいものから硬いものまで分野を問わない広範囲の本が壁一面にあり圧倒される。そして私たちを客として特別扱いをしないが、気配りを感じさせない気遣いをするご夫妻に感心する。
森岡夫妻と知人、お弟子さんを交えた夕食後の酒を楽しみながらの談論風発は終えることをしらず午前一時・二時は毎度のこと。そこで交わされる会話の中に森岡さんの博識さが垣間見られる。奥様の由利子さんは物作りへの心構えに熱が入る。
いまも土器作りをしている外国の部族を訪ねたとき、作り方はもとより彼等の生活や生き方を勉強したと言ったことがある。これは一例であるが、陶芸に対する取組方は普通ではない。長年陶房を訪ねさせていただいて、知識に裏打ちされた思考や、何物にも動じない姿勢。飾らない生活や自信に満ちた生き方に人間としての魅力を感じた。
山を愛し酒をこよなく愛する森岡さんは、博識を誇示せず世間に媚びない作陶精神は揺らぐことなく一貫している。それらを作品の中に焼締めているから、見る人の心を捉えて放さないのである。人間力が作っている手本であると思っている。
森岡さんに限らず「作品の魅力は、作る人の人間としての魅力が滲み出たもの」であると確信する。
今回の企画展は、他のギャラリーでの森岡さんの焼締め、由利子さんの磁器。そして独立した五人のお弟子さんとの合同展をみて、若者たちは師匠の追従でも模倣でもない、それぞれの顔の見える作品を作っていたから、濫觴の新年の幕開けに相応しいと、お願いして実現した森岡一門展である。
森岡夫妻の指導よろしきを得て独立した「この師匠にしてこの弟子あり」という若者たちの今後を見守ってゆきたいと思っている。
2008年1月